プロベラ
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乾鮑厨師の熱き想い

乾鮑に魅せられた大食漢の綴り 
マレー鉄道の不思議  入国してから 出国とは (去年の今頃を振り返り)
大量のコンテナ野積み場所 コンテナヤードなんでしょうか
 辺鄙な処をかいくぐりたどり着いたのが マレー鉄道終着駅、

世界広といえど こんな奇っ怪な場所 他にあるでしょうか?
国のメンツ丸出しの場所がここ
ただし、今年が見納めかも知れません。
来年には、この駅は廃止されウッドランド駅が終着駅になるとか

この駅には、VIPルームがあります。詳しくはこちらから
インドシナ鉄道旅5

通用門のような処から駅に入ると 右手とその奥は食堂。
ガーデンテラスで鉄道を見ながらの食事もおつなものです。

駅改札の上にはこんな表記
この駅は タンジョンパガル駅です。

マレーシアは 駅舎を含めマレーシア所有といってますが
改札から先は マレーシアそのものです。

パスポートをもって 改札口へ

右側の窓口で、マレーシア入国手続きをします。
ここを出るとテーブルがあり税関申告書を記載する書類がありますが
誰もそれを手に取る人はおりません。

スーツケースの中は禁断のアルコールがぎっしりつまってます。
回教国での必需品 でも誰も赤線に並ぶ方はいません。
金魚のうんこのようにグリーンベルトをとおって列車に乗ります。

気分は、もう シンガポールを出国しております。
列車の中はマレーシアです。いやこの敷地内も
でも、まだシンガポールの出国手続きは済んでません。
なんでや、出てから入るのに 入ってから出るとは?

列車は、北上する事15分 辺鄙なところで停車します。

ウッドランド駅
ここはパスポートチェックだけの駅です。乗降はできません。
荷物は列車に置いたまま
パスポートだけ持って下車して右奥から駅構内に入ります。
イミグレーションでシンガポールの出国続きを済ませます。
建物左隅に移動、広い場所でゲートが開くまで待機します。
ゲートが開くと列車に乗ります。 その間 20−30分

発車すると直ぐに鉄橋 ジョホールバル水道を越えると直ぐに
ジョホールバル駅に到着です。

ジョホールバルといえば 忘れてはならないのが
故 山下将軍閣下です。
アジアを悪魔から開放したマレーの虎 その人

ゴム、香料、錫、石油、綿、茶 さらには、阿片栽培にまで
手を染め地下資源だけで無く人心さえ奪い尽くしていた
海賊山賊白人国家
 
セポイの乱 
インド民衆のささやかな抵抗は失敗に終わりました。
白人に抵抗する事は不可能と有色人種は思ってました。
  
イエローモンキーが スレーブがサーバントに 
命令口調で イエスかノー と 詰問したその場所です

シンガポールの戦い

詳しく知りたい方はこちら   マレー作戦

英、米、蘭、豪の白人はその恥辱を忘れておりません。
極東軍事裁判 

将軍の どの行為が戦犯の理由なんでしょう?
アジアを開放した事ですか? 大東亜戦争の真実

極東軍事裁判は 白人の日本人に対する報復劇 
それ以上 何の説明がつきますでしょうか?

待てしばし 勲のこしてゆきし友  あとなしたいて 我もゆきなむ
辞世の句にもそのお人柄がしのばれます。

祖国に彼を賞賛する声が無く、インドシナ半島でそれを知る旅でした。
日教組 間違ってませんか? 日本人の誇りを何故教えない?

これ以上の醜態は無い 醜態の限りを尽くすバカン
山下将軍がこれをご覧になったら何とおっしゃるでしょう

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| 海外旅行 | 06:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
シングリッシュが判らない 頼りのiPhone3GS 音が出ない
 バンコック 朝7時発のエアアジア機が、シンガポールに到着したのは
10時過ぎ、格安航空は、所場代をケチるから、通常沖掛かりです。
(ゲート直付けでなく、駐機場からバスでゲート)
それも一番遠くですから、その距離は半端ではありません。
これは、バンコックでも同じです。
足に自信が無い方は格安航空はお薦めできません。

これからむかうのは、マレー鉄道 シンガポール鉄道駅です。
空港から地下鉄が出ているのですが、この駅との最寄り駅は
歩いて行ける距離ではありません。バスも同じく
ともかくこの駅は継子扱いです。
マレー鉄道の歴史を見るとこれも理解出来ます。

タクシーしか方法がありません。
荷物を受け取り、タクシーに乗り、
 I'd like to the singapole railway station.
    ??????????????????
訛りの強い発音で私も相手がいっている言葉が
アイダホの東北弁のようで何にも判りません
Rail road station!
???????????????

K,T,M Station Please!
????????????????????
何を言っても 通じません。
こんな事も有ろうかと、今回は秘密兵器を持参しました。

なくこもだまる 指さし英語  発音もほんまもんです。
これを立ち上げ、鉄道駅に行って下さい
という部分を タッチするのですが音が出ません。
あせるな ボリウムを上げろ 上がってます。

そこで、音楽を聴くとちゃんと音が出ます。
ソフトがだめなんだろう と VoiceTeaに変更します。
このソフトは、自分が喋ると英語に変換して喋ってくれる
優れたやつです。
なんども練習しているので間違いはありません。
ところが、これも音が出ません。
さらに、次のソフト、更に次のソフトと試すのですがだめです。

どうも iPone3Gsのソフト的エラーのようです
最後の手段は筆談、やっと車は目的地にむかいました。
やれやれ 
途中 大きな建物を通過する度に、説明してくれるのですが
耳慣れないせいか、英語に聞こえないのです。
頭の中は、iPhone3Gsをどうして治そうかと試行錯誤。

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| 海外旅行 | 06:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
バンコック 深夜の過ごし方と エアアジア
 格安旅に人気なのが、NW時代からこのコースです。
安いのには訳があって、バンコック到着が深夜12時過ぎ
イミグレを出ると1時過ぎになります。
ホテルにチェックインしても1泊料金。
そんな事から空港内には、仮眠する方が大勢。

若い頃なら右へ習え でしたが旅の初っぱなから無理はしないと
ネットで探した空港に近い安ホテルで仮眠を取る事にしました。
あの広い新空港で迎えの方に出会うのは簡単ではありません。
メールで落合場所を何度か確認したお陰です。

車で数分との事でしたが、どしゃぶりのスコールの中
100km位で飛ばす事15分 眠気も覚める思いをしながら
こざっぱりしたホテルに到着 

シャワーを浴びる前に、非常口の確認。
両側の非常口に行って ドアが開く事を確認します。
万一の時、ゲストを安全に誘導してくれるのは日本だけでしょう。
海外では、我が身は、我が身が守るしかありません
非常口は、手で開けて確かめるのはバーベーキューにならない為

5時過ぎに、ホテルをあとにします。送迎付で、2000円程度
空港内で、堅い椅子に身を横たえる事をおもうと快適です。 
このホテル、ネットでは好評でしたが一部不評の声を聞くと
出迎えが悪い、送迎料金を取られたとかございますが
送迎料金無し最安プランで申し込んだら当然でしょう
運転手の気配りが嬉しく100バーツ 差し上げました。

早朝の空港は閑散としております。 奥にはまだ仮眠中の方が

エアアジアのカウンターです。
今は、日本にも来ておりますので、知名度は高くなりましたが、
5年前に利用した時は、空港職員でさえカウンターの場所が
判らない、特定のカウンターを持ってませんでした。
今回は堂々と数カウンターを陣取ってました

安さはの秘密は周知の事実ですが、利用者はその仕組みを
知る必要があります。
JAL、ANAの手厚い心配りが当たり前と思う方。
サービス、水、安全は ただだと思っている方
このエアーは避けた方が良いでしょう。
全て、自己責任です。
オーバーウエイトを強権でごり押ししようとしても
手痛い負担を求められます。
インターネット申し込み時に、荷物が増える恐れのある方は
多少多めに申告したほうがベターです。
現場で、オーバーウエイトになるとえらい出費です。

機内は一部を除いて自由席です。
非常口の席は足下が広く、100バーツ程度の追加料金が必要
これを払う方は少ないので隣が空席になる事が多いようです。
おかげで、ゆったりとした飛行となりました。
非常口席は、非常時の介助補助を義務付けられます。

まもなく、朝食が運ばれてきました。ネットで頼んでおいたものです。
飲み物付きで100バーツ  機内でも在庫があれば購入可能です

なにもかも安いエアアジア
しかし 社員の愛社精神は、昭和40年代の日本に通じるものが
御座います。
田舎のバス よろしく 車掌さんは何でもやります。
機内清掃、それが済んだら搭乗旅客のチェックイン補助
機長もパーサーも席を温めてません
この活力は、この後マレーシアの至る処で見かけました。
日本に追いつき 追い越せが目標だったとか
とっくに追い越されているのでは無いでしょうか  精神は!

いま、日本 愛社精神、愛国心、何処に行ったのでしょうか

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| 海外旅行 | 07:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
去年の今頃 FFP デルタでバンコックへ
 ノースウエスト航空があった時分の頃
アジア地区のエコノミークラスは15000マイルで往復できました。
30000マイルだすとビジネスクラスに乗れました。
香港、台北は人気で席を確保するには1年前からの予約が必須でした。
シンガポールは比較的簡単に取れました。
デルタとノースウエストの合併は、FFPにとってダメージが多すぎます。
今日 調べると シンガポールはエコノミーで75000マイルも必要です。
これでは、マイルを溜める気がしません。

何はともあれ、ラウンジで休憩

ラウンジは、出発機が視認できるところにあるから便利です。

スナックも十分満足です。

ウエルカムドリンクはシャンパン、口開けを頂きました。
どなたもシャンパンを希望なさらないようで半分ものむと直ぐに
つぎたしてくれます 何度もお代わりを頂きすっかり御機嫌に

飛行機の席は、何処に座っても同じようなものですが
長時間、気兼ねなく過ごすには、やはり、その場所も問題です。
良いシートを選ぶのはこちらから

ノースウエストの時代は、FFP ビジネス航空券でも良い席は
平会員には確保できませんでした。
一番前の席が希望でしたが何の制限も無く取れました。
これはうれしい 気兼ねなく出入りできます。
深夜到着後、早朝には移動を考えると直ぐ寝る事が肝腎
そんな気遣いをする迄も無く到着寸前まで爆睡でした




| 海外旅行 | 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅は三楽 1年前の今頃 成田空港で あたまのなか まっ白に
旅は三楽  
その最後の楽しみは、楽しかった出来事を振り返る事です。
何時でも楽しめます。

去年の今頃は、旅行中のウキウキ気分でした。
しかし、一つの出来事で、ウキウキ気分にタバスコを
かけるような、かけがいのない教訓を頂戴しました。

思い出しすと頬が紅潮する出来事で御座いました。
前日、成田空港にアプローチする飛行機を目の前に
見えるホテルで過ごし気分はもうそわそわウキウキ

夕刻出発にもかかわらず、昼食後チェックイン
出国手続きを済ませます。

まずは 回教国滞在対策にアルコール類をどっさり
買い込んでおこうと免税店へ、

お金を払う段になって、財布は無い、パスポートは無い
貴重品一切 無いのです、頭はまっ白です。
そういえば、ポシェットもありません。
記憶をたどるに、人とぶつかった事も無し、盗難では無い
随分考え思い当たるのは、出国検査です。
あの時、かごの貴重品を回収しなかったのです。
そこに帰ろうとするのですが逆行が出来ません。

イミグレ事務所で その旨話すと、心得たものです。
そんな 馬鹿 日に数人はいるとか 
ああ わたしもそのお仲間です。 お恥ずかしい
係官に届けて頂き、事なきを得ました。
(お手数をお掛けしました 深謝)

幸運だったのは、免税店に立ち寄った事
そのまま搭乗していればと おもうと今でもぞっとします。
日本で良かったです。
外地で同じ事が有れば回収できる可能性はどんなもの
だったでしょうか?

それやこれや 去年の楽しかった旅
これからしばらく 折に触れ 振り返ってみたいと思います
| 海外旅行 | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
格安航空会社 苦戦
 0700降雪10cm 外気温-6.1度室温8.2度風弱く波静か視程1km未満

格安航空(Low Cost carrier)が苦戦しているようです。
戦後、日本人は、貴方任せ、危機管理能力欠如、金魚の糞
お仕着せ、JALパックを初めとする痒いところまで、行き届いた配慮の
ツアーに、どっぷり浸かっております。

数ヶ月先の予約と、頻繁に生じる、予定変更、複雑な手続き等を
こなしてこその、格安料金。
日本人には、ハードルが高いようです。
飛びつく方が少ないのも、納得です。
しかし、選択の幅が広がったのは喜ばしいことです。

いや、賢い日本人は、目の前の餌に飛びつかない。
エアアジアで調べると、クアラルンプールだけしか道がない、
往復、利便性を考慮するとちっとも安くない。
目の肥えた日本人に食指を誘うのは容易ではないようです。

JALは、100円ショップに成り下がることはありません。
ただ、JAL最大のお荷物、年金受給者を切るしか
上昇気流に乗る事は、困難に思います。
稼ぎ手の現場従業員を、切るのは本末転倒だと思います。
その前にやることが山積しております。
鶴丸JALの 飛翔を望むもので御座います。

| 海外旅行 | 07:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昭和5年 「シベリア線の行き帰り」 画家 三宅克己氏著 その4
  文藝春秋 昭和6年2月号掲載から転載


シベリア線の往き帰り

    その4

                       三宅克己氏著

私達は一日も早く満州里に付く日を唯一の楽しみに
その日その日を列車中にて暮らす。
處が、モスクワ市を立ちて、三日目の朝八時頃と思う頃に
ウラル山の絶頂、雪の深い真ん中で私達の列車が停車した。
妙な場所に停車したものだと思っていると、食堂車の車輪に
故障が出たのだというのである。

その内 誰云うと無く、十時間をその修繕に要するのだと
言い出した。
その内私達の寝台車は、食堂車と切断されて
約三哩も隔たっている退避側線のある地点駅迄
引っ張ってきた。

その日は朝から食堂車を切り離されたのだから、
本当に食べるものがなかった。
巴里から少しばかり袋に入れて持ってきた、南京豆を袋から
取り出してそれを食べて漸くに飢えを凌ぐ。
ウラル山頂の晩秋の日足は、特別に短いように思われた。
夕の四時。五時頃には、四辺がもう薄暗くなる。
窓外は白樺林と、際限ない雪の外 
見るものは何もなかった。
流石の帝国ホテルの両氏も当惑顔だが
全く策の施しようがない。
この上は天命であると覚悟を極めて
徒に時の経過を待つて居る内
それでも遂に汽車が動き出すことになった。

而も食堂車は彼方に置いてきぼりだと云うことである。
乗客一同は、この警告を耳にして、一時ぎょっとした。
満州里までは未だ六日間奔り抜かねばならぬ。
その間食堂車無しとは、誰に取りても一大事件である。
處が私達は六日間の心配では無い。
山頂の雪中を発車して、約三時間ばかり奔り
午後九時過ぎ頃である。
ニコライ二世の一族が悲惨成る最期を遂げられた
元のエカテリンブルグ
革命後スウエルドロスクと解明したその駅に着いた。
夜中 食物を買おうとして、プラットホームに下りれば
雪で往来はぐちゃぐちゃである
北極から吹き始めた氷のような寒風は
私達の耳鼻を切り取るように過酷なのである。

帝国ホテルのK氏は、買い物は若い者に一任せよと
叫びながら、近くも無き駅内のブツフエに飛び込み
パンと若干の肉とを買う可く突進したのだが、
やはりここでも切符所持者でない者には何も売れないと
言い張る。
露語を解する外人達は希望は イムポッシブリー だと
云うてすごすごと引き上げてくる。

K氏を待っている私達は、外人の失望の模様を見て
失望落胆した。
試みにK氏の動静安否を気遣うて、恐る恐るブツフエ内を
のぞきに行くと、K氏は今まさに命がけの手真似足踏みの
動作により、無理にも売ってくれろとの嘆願最中である。

如何に長い停車時間であるからと言うて、
発車の鐘の鳴るのは既うそう間がなさそうである。
私達のその時の心労は、自分達の食糧問題ではない。
K氏の身の上である。
乗り遅れる様なことがあっては、それこそ一大事と
同室のE氏も心配して半分狂気の如く興奮して迎えに
出かける。
その内K氏は、片腕に新聞紙の包みを抱えて、
得々と車内に飛んで帰る。
売らぬと云うのを無理に哀願してとうとうこれだけ
せしめて来たと、その得意は当たるべからざる
ものがあった。

私達夫婦は、その夜 K氏の努力によって
暫く飢餓を免れたことだが しかし当夜のK氏の苦心は
引き続き満州里まで継続されたのであった。
それでもイルクーツクバイカル、更にチタ付近に来ては
各駅のブツフエに幾分の食料品を見いだすことが
出来たが、いずれにしても煙草の箱一個手に入れるのも
実に容易でないシベリア各地。

就中露都モスクワ市の現状は、旅行通過人をして
唯唯呆然たらしむる外無いのである。
私達一同は、満州里にて東支鉄道に乗り換え
急に糧食の大洪水に遭ったような喜びを覚えた。

以上は私の偽らぬソヴィエッツト露国通過の実話であるが
今となり いかにも狐につままれたような話なのである

というのは、帰朝後有る一部の人に話せば現在の
露西亜がそんなはずはないなどというて いかにも
涼しい顔をしている人たちが多いことである。

未だそれはよいとして、
偶偶露国滞在者の帰朝者の有る者の如きは
露国そのもの現実をいかにも恵まれたる地上の楽園の
如く紹介するに至りては自分は全く二の句が出ないのである。

彼の混乱している、彼の惨憺を極めて居る、彼の食料衣服に
欠乏しきって、市中は全部戦後の如き光景のそれに
若し果たして謳歌すべき 一道の光明があるものとすれば
それこそ世界の七不思議の尖端に立つ
一つの大奇蹟の様に思われるのである。
見たままを今廻らぬ拙き文筆をもって
客観描写を試みたに過ぎないのである。
この飾らず偽らざる文筆の写真印刷を見て
それを如何に判断せられるやは
それは読者諸彦のご自由に任せる。
                              完


| 海外旅行 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昭和5年 「シベリア線の行き帰り」 画家 三宅克己氏著 その3
 文藝春秋 昭和6年2月号掲載から転載


シベリア線の往き帰り

    その3

                       三宅克己氏著

だが然し僅か半年後のモスクワ市は
更に二目と見られぬ生き地獄となっていたので
益々以て驚嘆するほかはなかったのである。

六ヶ月の欧州巡遊を終えて私が巴里を発ったのは、
十月十三日の夜十時であった。
一昼夜の後、伯林 ワルソーを経由、露領に入り
その翌日 露都モスクワ市に着。

その春はメイデイのその日の所為も有ったのか、
一般市民がこれほどでもなかったと思ったが、
今度来てみれば、イヤ汚いの汚くないのと云って
全市 正に乞食坊主の寄り合いと云うほどである。

更に驚き入ったのはこの春さすがにモスクワ市の
停車場中では見かけなかった無宿の浮浪者が、
彼のウラジオ駅で見たとおり、各駅の待合室に
遠慮無く占領していることであった

私達は、午前十一時、
ベロルスコバルチースキー駅に着き、夕六時
ヤロスラウスキー駅より発った。 この間七時間。
食事もせねばならぬ。茶も飲みたい。休息も無し。
また時間有れば、美術館の一つ位も見たいのであった。
然るに何事ぞ、各停車場のブッツフエにては、
入口に立ち番を置き、豫て警察より切符を
受け取っていない者はその何人たるを不問、
一切入場を許さぬと頑張る。

私達一同、五六人の日本人旅客は、これには実際当惑した。
試しに市外に出てみてもレストウラントは勿論カフエ一つ無い。
この春 開いていた商店も、今度は閉店して空き家と
なっている家が多いのである。

モスクワ市には、ホテルとして、
グランド、メトロポリス、サボイ。ユーロペイスカヤ、等の
旅館のあることは、百も承知であるが
法外の勘定書を突き出されて、目を回した羅災者の
幾人かを知っているから、容易にそんな危険区域には
足を近寄らすわけには行かぬ。

そうかといって各駅の食堂では現在その中で、
食事をやっている者がある姿を見ながらも、
到底私共の入場を許さないのであるから
なんとしても恐れ入った。

国際列車の通過を許し、尚その列車の旅客の通過は
当然なるに、その旅客一般に対し知らぬ顔の半兵衛さんは
あまりにもわからぬ話である。

私達日本人の一行は、終に途方に暮れて
試みに駅長に嘆願に及んだ。
然るに案外にも深い同情の許に駅員に導かれて
漸く食堂の厳門をくぐることが出来た。
空腹を抱えた一行は、ヒョロ付く足を踏み占めて、
食卓に就き漸くその日の昼食に就くことが出来たが
料理は輿えられるままの定食である。
油の少しばかり浮いている、塩辛いスープと鱈の如き
大味の魚の煮付けとポテトの焼いたのである。
その他 黒パンにネズミの小便臭い茶の一杯である。

噂ではモスクワ市には、この三四ヶ月以来牛肉は絶対に
無いのだと云うことである。
その為日本帝国大使館の婦人達は
栄養不良で神経衰弱に罹り目下養生の為
独逸に転地療養中だと云うことも聞いた。
勿論其の実否は保証の限りでは無いが、
如何にも彼のスープを吸い、彼のパンと小便臭い茶を
飲まされたところから推察すると
強ち嘘でもないような気がするのであった。

終日 水の外、茶一杯にもありつけないと覚悟した私達は
兎も角も腹に食物の這入った嬉しさに、元気付き、
ボーイに謝意を表し、尚案内の駅員に謝礼の意味を
表する為若干のチップを提供したのであった。
然るにこれはまた如何に、奈何しても固辞して
受け取らぬのであった。
私は極みて無遠慮に、見たまま感じたままを
語り続けるのであるが、この混乱のモスクワ市にあり
驚く可き清廉なる、日本の昔の講談に出もありそうな
男気に感心したことも、慈に吹聴せねばならぬ
義務があるのである。

それは話が後戻りするが
彼の五月一日のモスクワ市の一日の出来事であったが
私は北日本汽船株式会社発行の
西伯林経由欧州旅行案内中のモスクワ市の地図を
見誤った結果、乗り換え停留所の大間違いをしたのであった。
私の不注意の責任も免れぬが、又同社発行の案内書も
多少の遺憾をおわねばならぬと思うがその結果は
私達を飛んでも無い方向違いの停車場に導いたのであった。

私達六人の同行者は、一時当惑した。
やむなく例のボロ馬車に飛び乗り、破損多きモスクワ市の
往来を隅から隅に駆けつけようとした時、
1人の服装最も賤しき老爺が、何処からともなく現れ来たり
こんな高価な馬車に決して乗るなと云う。

この老爺は多少独逸語を操るので、同行のK氏が委細の
意を汲み取り、その老爺の行為に謝するとしても
その辺鄙なる停車場にあり、発射の前1時間を争う際故
車賃の如何位は今更問題では無かったのだが、
老爺は頑として聞かないようである。
その内10分。20分たち、遂に適当の車も電車も1台も
来ないので、じいさんとうとう2時間近くも私達のために
気を揉んでくれ、彼是心配くれたのだが、
最初はあまりにその服装の汚い為、その人柄に就いて
疑っても見たのだが、結局その老爺の為に1台の自動車を
雇うことが出来、私達六人は幸い無事汽車に間に合ったのだ。

その時、二時間余りの斡旋の労に報うる為、
若干金の謝礼を出したのだがそれは奈何しても受け取らぬ
日本人の顔には見られないほどの物凄い眼光で
私達が睨み付けられたのに恐れを為して
とうとうその謝金は引き込みましたが、
老爺は却てその為に悦んでくれた。

こんな話しは、英国でも米国にだってない話しだ。
況て旅客の顔を見れば、未だ何とも云わぬ内から、
こっそり手を出す者の多い、仏蘭西や伊太利亜等では
テンデ嘘の様な話しだ。
一面この貴い日本の昔の古武士のような美しい精神が
彼の混乱の露都で度々お目にかかり得られるとは
実に以外千万なる話しである。

露西亜をつかまへて、謎の国と云うが、
実際私は以上の実感だけでも、本当に謎の国と
云い度いのである。
何の事だか一向見当が付かないとはこのことである。

さて十月十六日の朝、モスクワ市に着いた私達は、
その日の午后六時発車して、満州里に向かった。
列車中我々日本人の一向は、夜祖触るとモスクワ市の惨状。
及び市民の気の毒なることのみを語り合うた。
中折れ帽を被って居る者は、旅客のみ市民の多くは
穴の開いたボロ服に、腐ったような鳥打ち帽か大黒帽。
靴は皆形ばかりの泥土の塊とより外見えない姿。
婦人は多く古ボロ布で、ほっかむりの者のみ多く、
帽子など被って居る洒落者は、今度はほとんど
見かけない位であった。

大停車場の待合室の腰掛け、
何れも張ってあった布地には大穴があいて、
その間からは、綿や毛や藁等が抜け出している。

切符を持っていた待ちの娘に金を握らせて、漸くの事で
少しばかりの黒パンと紙にひねった飴チョコを買ってきた、
帝国ホテルのE氏K氏の両氏は
飴チョコが一個二十五銭とかでその高いのに舌を巻く
             (葉書 1銭5厘)

| 海外旅行 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昭和5年 「シベリア線の行き帰り」 画家 三宅克己氏著 その2
文藝春秋 昭和6年2月号掲載から転載


シベリア線の往き帰り

    その2

                       三宅克己氏著

シベリヤ線通過にて、欧州に行くには
日本においてソヴィエッツト露国大使館の旅券の査証を
是非受けなければならぬが、その査証を受けるため
大使館に出入りする際、運が悪いと警視庁の刑事さんに
捕まって取り調べられる場合があるが
これだけでも余り愉快な気持ちはしない。

露国入国の上は、絶対に写真撮影望遠鏡使用
その他列車内の細かい筆記等厳禁と有るが、
世界広といえども、こんな不自由な国の
2つと有るのを聞かない。
私は斯様な窮屈な国の通過はちっとも有り難くは無いが
旅行時日の大倹約が出来るので一時我慢することと成った。

4月19日敦賀港を出帆して2昼夜の航海でウラジオ港に着
露国のウラジオと言えば、我々小学校時代から
小さい耳の底に焼き付けれれている
着港を待ちわびて、旅客一同目を皿のようにして
甲板上に勇み立つ、
いよいよ露国上陸となり、旅券旅具の検査が終わり
今度は露国通貨の両替である。

官憲が船に出張してきて、強制的に両替を迫るは
可いとしても、日本金貨30銭のルーブルを
金壱円弐拾銭の公定相場で換金させるのは、
寧ろその横暴に敬服

残念ながら、日本にもまれなる程の天然の良港と認むる
大ウラジオ港に上陸すると、第一に驚いたのは乞食の
ような貧民が、波止場付近に群集していたことであった。
我々は流石の日本でも見られぬ程の、悪道を案内されて
ウラジオの銀座街とも云われるレーニンスカヤ街に出たが
何処まで行くともその乞食姿の男女は、増加すれども
その数が失せないのに驚く。

埠頭の税金に堪えられず、旅館を閉じて、日本人の
単なる倶楽部として取り残されている扶桑舎成る家に入り
特急列車の発車迄約十時間休息。
この間 ウラジオ港の概略を見物する。
流石に一般の国建造物は、如何とも名状し難き光景である。
奈何しても戦後敗戦国の憐れさである。
ボロ靴を履きボロ服を纏っている市民は何様有りてか
市街を忙しそうに往来しているが
上陸したばかりの新来の旅客には、唯薄気味が悪いと
いう感の他何事にも代え難い。

この薄気味悪い街街の間に、吾が帝国領事館や
朝鮮銀行支店の建物が、沈みかえって建っている
私達扶桑舎の主人に引率されて、停車場に行ったのは
夜の十二時近くであった。
同行者日本人六人居たというものの
真暗闇の凹凸烈しいウラジオ港の夜道は、
決して愉快とは言えなかった。
私達は導かるる儘に停車場に入る。
第一に胸を悪くしたのは、形容も出来ない悪臭
鼻を突いた事である。
見れば広々とした待合室には、所狭き迄老人子供等が
各荷物を枕として、累々と横臥している事であった。

私達は、その間の狭い通路を縫うようにして
プラットホームに出て、無事列車に乗り込む。
彼らは乗客にあらず。と云って乞食の群れにもあらず。
住む新家のない憐れむ可き貧しき市民だという事である。
深いと不安のうちに、ともかくも列車はウラジオ駅を
発車して黒竜江の支流に沿うて北に進む。

少なからぬ懸念に堪えなかったワゴンリー
すなわち万国寝台会社の列車は、果たして如何にあるかと
思って居たのに反して、これは日本の列車の到底比較に
ならぬ程の、完全の設備にて大いに安心する。

食堂車の料理
これは物資大欠乏の露国の事として、予めの覚悟もあったが
正直の所 日本郵船会社欧州航路線の三等以下の程度と
見て差し支えないかと思った。
而も公定相場、四倍高のルーブルで支払うのだから
一杯十カツペークの土臭い茶も、十二銭となるので
勢眼の飛び出る程に高価な至極不味な、
その日その日の食事をとらねばならぬのは
やむを得ぬ事として諦める外は無かった
                   (昭和5年の諸物価)

列車中、乃至食堂車のボーイや給仕人の一般の
サービスは、これは極めて宜しく、真心からの親切を
毎度謝したのである。

例えばシベリヤ内地を奔る列車は、石炭代わりに白樺の
まきを焚くのである。
だから時々各駅に停車して、山程の薪を一々 機関車に
積まねばならぬ。従って停車時間は長い。
二十分。三十分。時には四十分も停車する場合がある。
その時乗客は、散歩の為プラットホームに出るのだが
そんな時には各列車のボーイは面倒とも思わず
一々部屋に鍵をかけてくれる。
それが一日や二日ではない。兎も角も十日間以上。
少しのむらも無くやってくれるのだから気持ちが良かった。

尚朝夕の寝台の世話。湯を薬缶に貰う世話。
これはあらためて云うまでもなく少しも嫌な顔をしなかった。
仮の住居と定められたワゴンリーの生活は
先ず以上のような具合でこの車の中から
シベリヤの大原野を覗きつつ旅をするのは
これまた愉快でない事もなかった

だが、案外で驚き入ったのは、至る処 国民の生活程度の
低いと云うより、寧ろ物資の欠乏に苦しめられている事で
あった。

今年の四月下旬。
この頃 もうシベリヤ内地には、煙草が無かった。
ウラジオを立ち八日目、
ウラル山頂の元のエカテリンブルグに着くその日だと
記憶するが 有る駅に停車すると、雪の中を踏み分けて
山賊姿の群衆が、食堂車めがけて襲来してきた。
これは何か騒動が始まったのかと、危惧の念に打たれて
見ているとそれは煙草を売ってくれろと
強請されていたのであるそうな。
而して乗客用に貯蓄しておいた、その煙草のストックは
瞬く間に根こそぎ持って行かれた。
尚その群衆の内には、私達旅客をつかまえて
煙草をくれという。
然し右の手には、皆の札束を握っているのだから
二度驚かされるのである。
余りの気の毒さに、1本の巻き煙草を一人にやれば
それを見る前で三分して友達たちにあたえ子供のような
無邪気の笑顔でそれをふかし合うのである。
白い煙草の煙が、熊男の顔から顔を撫で廻る。
煙草に飢えていた群衆は、その消えかかる煙を
嗅ぎ廻って無上の悦を讃えるのであった

如何に不景気のどん底という日本でも、こればかりは
想像も及ばぬ事とおもはれる。
私達の食堂車は、ウラジオ発車の当座は、
未だ不充分ながら、物資は多少有った
朝食の鶏卵等は、辛うじて口に入ったが
露都モスクワ市に接近するに従って等々品切れと
なってしまった。
幸か不幸か私達は、五月一日メイデイのその日の朝
モスクワ市のヤロスラウスキー駅に着いたのである。

駅内は勿論、駅前の大広場は、爪も立たぬほどの
群衆で満ちあふれていた。
楽隊を先頭に立たせた、各組合の行列が前後左右から
その群衆の中を横断するのだから
ますます以て一足も自由に歩くことが出来ない。
折角楽しみとしていた、クリムリン宮殿
レーニン廟ドレチャコフスカヤ美術館。乃至
郊外の雀が丘の見物など、思いもよらぬ事であった。

私達は命からがらで、暫く地図を頼りに市街の
一部分を歩いた。
唯有り難かったのは、毛色の違った我々日本人が
歩いていても、一人として私達に不快の感を与えるような
不作法者がいなかった。
だが革命後の露都モスクワ市は、実は二目と見られぬ
ほどの惨憺たる市街であった。

人口弐百弐拾万人と云われるモスクワ市に
自動車は僅々二十台もあるかな と云われているが、
実際自動車の陰は、容易に私達の目には入らなかった。
現在のモスクワ市の交通機関は、ボロ電車と
ボロ馬車である。
漆が剥奪して、鉄の部分が赤さびとなり、而も腰掛けの
布団や後方のクッションは大概大きな継ぎが当たって
いる一頭等だての馬車は如何に贔屓目に見ても
ボロ馬車でないと云われないのである。

尚又それらの馬車の御者の老爺が、それぞれ振って
いるのである。
奈何しても今牢獄から引き出された、罪人とより
受け取れぬほど、左様に疲労困憊している。
一見乞食老爺と見るほか、無かったのであった。

その日は特別の日なので、それらの乞食老爺は、
多く酒に酔いつぶれて、働こうとする者の少なかったのは、
あえて咎め立てする程のことではないが
それらのボロ馬車に揺られつつ、凸凹極まりない石敷きの
市街を引き回されたその危険さは、今に
忘れられぬ話しでの種である。

いずれにしても革命後の、現在の露都モスクワ市は
唯唯混乱無秩序。
而も大襲撃に遭遇した戦敗国の年というほかなかった。
市中の各市街は、東京市の尚及ばぬ程の、
堂々たるものである公園も相応なものがあろう。
劇場も、寺院も学校も。病院等、何と言っても
露西亜の都たることを頷かせるが、然し現在は公園は
物置場、掃き溜め。大商店は牢屋同様。自院は廃墟。
詳しく見れば見る程更に遺憾に思うかぎりである。

それでも私達は、この春は停車場のブツフエに於いて
自由に黒パンも囓れたし塩辛いスープの1杯をも吸う事も
出来たのである。

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昭和5年 「シベリア線の行き帰り」 画家 三宅克己氏著 その1

以前ご紹介した、「文藝春秋に見る昭和史」の文中
村田春樹氏 著 「太平洋戦争」が、同誌
昭和6年新年号から、6月号まで掲載とか、
 
図書館でそれを拝見していた処
この紀行文が御座いました。
著作権失効しておりますが、(作者没後50年)
現代日本人が是非とも、当時の様子を知っておくべきと
関係者の方々に失礼を詫びながら、掲載させていただきます。
誤字、脱字、改行等御座いますがご容赦のほど

この道中記をご覧になる前に当時の世相背景も御理解下さい。
昭和  をクリック、昭和初期をご覧下さい。

日本から欧米に往く場合、旅客船、貨客船等で西回り
スエズ運河からマルセーユに上陸するのが一般的でした

費用、日数の関係で、シベリア鉄道を利用する方法もありました。
この鉄道に、ワゴンリー 経営の寝台急行列車が運行され
欧州と極東を結んでおりました。




文藝春秋 昭和6年2月号掲載から転載


シベリア線の往き帰り

                       三宅克己氏著

ヤー、ツドゥジェッツク
これは「私は書家であります」という露西亜語であるが、
私はその通り単に「画描き」の一人である。

元来私は、所謂思想家でもなければ、主義者でもない。
従って今日世間一帯が念頭に措いて種々研究せられて居る
現在のソヴィエッツト露国などに就きそう潔く考えた事も無い
その政体が良いにせよ、又悪いにせよ、
又有りがたいものか 危険なものにせよ、
一向に無頓着なものの一人である。

處が私は、今春 欧州旅行を思い立ち
それにはシベリア線を通過しなければ成らず
奈何にしても露西亜の土地を踏まなくてはならぬので
漸く露西亜という国に就き、考が及ぶようになった。

日本の人たちが現在の露西亜に関して
奈何考えているかと云うに一部の自稍新人の間には
露西亜謳歌者が多く、未だ覗いたこともない
その闇の現在を、天国とは行かぬ迄も何か
地上の理想郷のように想像している者が
少なくないようである。

これは皆書物の上や、所謂思想家と称されている
理論家達の机上の空論によりて、憧れ抜いて居るわけで
あるように思われる

以上断って有るとおり私は単なる旅客として
14日間内に露国通過すべしと云う旅券の査証を
厳守してその国を通過すればそれで問題は
無いのであるが同じ通過するにしても、
それ程優れている新興国に就いて多少学ぶところが
あって欲しいと種々様々な想像を巡らしていたのであった。

しかるにあにはからんや、
露国そのものに1度足を踏みかけてみると 全世界中
自分が今だかって見たことも聞いた事も無い程の
憐れむべき国情で、本当に驚き入ったのであった

私は、今年4月東京駅を発ち、敦賀港より乗船
ウラジオ港に上陸して、モスクワ市経由にて、ベルリンに
行ったがその間、
ウラジオ港よりポーランドの国境ネゴロリエまで
11日間の見聞は、今思い出すのも幻滅の他は
ないのであった。

更に私は、6ヶ月以後、再度モスクワ市、満洲里、哈爾浜を
経由して帰朝したが、露国の一般状態は極端に悪化して来て
旅行者に困憊、不快を感じさせた事は、一通りでは無かった。
その国民の窮状は真に憐む可く言語道断であった。

勿論露国が果たして奈何であろうと
今更その国を彼是批判する限りではないが、
私としては、堪ら無い最悪の生き地獄世界に呻吟している
現在の露国民に同情せざるを得ないのである。

「生まれざりしなければ」   という言葉は、
現在のソビエツト露国民の、等しく発する嘆声では
ないかと思われる。

翻って善哉の日本を省みるに、大不況を叫び、生活難。
就職難、国民一般は悲鳴を張り上げその声はますます
深刻に成りつつある傾きを認めるが、
然し現在のソビエツト露国の状態を比較しては
到底比較にもならぬ天国であり、楽園であり
有り難い理想郷とも言い得ようと思うのである。

1日の米を手に入れるに、一般市民が、早朝から市中を
はい回る必要もない
日本帝国の国民は確かに現在の露国民より、
幸福であると言わねばなるまい。
又試に東京駅上野駅に行くも、白昼公然と無宿の
貧民が群れを成して自分の住所として占領している
光景も見あたらぬようである。
又 例えば1本の巻き煙草を往来の人が3人に
分けて喫煙している画も銀座や丸の内あたりでは
いまだ見かけないようである。

然るにソビエツト露国においては如何に
その首都モスクワ市の中央に措いてさえも
東京大震災直後より尚一層見るに堪えぬ惨状であるとは
斯く語る自分を疑われる程に現在の日本の一部の
人たちには露国は誤解されているように思う

私は、「ヤーフドウジニツク」である。
ソヴィエッツト共産主義に対し、何ら特別の憎悪を
持つ者でもなければ勿論共鳴している者でもない。
住み心地良い風光明媚な国なら、
それが外国でも何処でも、親しむ可き理想郷として
世界中を飛び回っている渡り鳥のような男である。
私の云う事に嘘偽りのない事は神仏に誓いを立てるが、
これも何かの参考の一端にもなろうと信ずるから
往復シベリヤ列車の窓から覗いたその見聞を次に
お話しする事にする

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